(金♂×国♀:冒頭より一部抜粋) ※多少の嘔吐描写を含みます ぎもぢわるい。ムカムカする。(これだからブランデーは嫌いだ)見るも無残な便器の内側にまたオエッとやりながら、何度目かわからない悪態をつく。 今日ついた卓のエロオヤジはサイテーだった。泥酔持ち帰りコースを狙うゲス野郎は俺のうすっぺたい尻をニヤニヤと撫でながら 「いいねアキラちゃん! ほらもっと飲んで飲んで!」 そう言って、何杯も何杯も俺に作らせては呷らせたのだ。最初のうちはあんまり飲まないんでと笑ってごまかしていたのに、最後のほうはほとんど水で割ることも許されずガブガブ飲まされた。オヤジもむかついたけれど、飲めば飲んだ分だけ売上になるんだからと俺も半分ヤケだったと思う。 そうして結局オヤジのワイシャツに思いっきり吐いて倒れてトイレに連行された。(奥さんにバレたらどうのこうのとオヤジは怒鳴っていたけど知ったこっちゃない) 「っ……げぇ、」 とぷ、とぷんと水音を立てて、アルコールと胃液らしきものが混じった色水はくちからまたこぼれ落ちた。 いつもむせ返るほどの香水のかおりで満ちている嬢専用女子トイレは、たぶん俺の吐瀉物の匂いでタイヘンなことになっているのだろう。鼻と頭が麻痺しているから俺はもうよくわからない。 ひとりで大丈夫だと言ってボーイはホールに帰したが、さんざん吐いてもまだしばらく立ち上がれない程度には回っていた。 冷たい女子トイレのタイルにぺたんと座り込み、力の入らない手をのろのろ持ち上げて便器にたまったものを流していると、コンコン、不意にドアの叩かれる音が響いてゆっくり顔を上げる。個室のドアは閉める余裕がなかったから女子トイレ入り口のドアだ。 不思議に思いながらもハイと振り返れば、失礼しますと男の声が言って、ジョッキ一杯の水を持った若いボーイが入ってくる。 先月店に入った金田一だった。おおかた先輩にでも言われてようすを見にきたのだろう。新米ボーイはピンク色の壁におどおどしながらも個室の入り口にしゃがみこみ、 「大丈夫?」 と水を差し出してくるので黙って受け取った。……受け取ろうとした。普段なら片手で持てるはずのジョッキは思ったよりずっと重くて、取り落としそうになったのだ。慌てて手を伸ばした金田一に身体とジョッキを支えられ、重たいガラスをなんとか口に運ぶ。 ゆっくりとひとくち傾けると、それだけでたまらなく心地よかった。 吐き続けているあいだにずいぶん喉が渇いていたことにようやく気づき、ごく、ごく、とそれを呷る。喉を通って腹の底へ染み込む冷たさに、酔った頭がすこしずつ冷えていく。 半分ほど飲み干したところではっとして、俺はとなりにしゃがみこむ男をキッとにらんだ。 「……ちょっと、いつまで触ってるつもり」 「え? ……あっ!」 言われてようやっと、金田一は自分の右手がべったり俺の胸に貼り付いたままだったのに気づいたようだった。 「ごっごごご、ゴメン!」 おれそんなつもりじゃなくてと金田一は飛びのき、飛びのいた拍子、個室の角にしたたか頭を打つ。大柄なボーイはツンツンとワックスで尖らせたらっきょみたいな頭をイテテとさすり、それから 「ごめん、胸だって気づかなくて」 悪気のないボーイは心底申し訳なさそうつぶやくので腹の底から殺意が湧いた。(バスト七十二をバカにする男は七十二回殺す) ふざけんなと文句を言ってやろうとして、しかし興奮したせいかまた吐き気がこみ上げて思わず便器に両手をつく。 そうすると戸惑いがちな大きな手に背中を押されて、もっかいオエエとあふれ出る。本人はさすっているつもりなのだろうが、力が強いせいか金田一のそれはさすられているというより押されている感覚に近かった。(よけいなお世話だこのらっきょめ、) 本当ならぶん殴ってやりたいのにゲエゲエやるのに忙しく、せいぜい殺意を込めてとなりをにらむと、なにを勘違いしたのか金田一は大丈夫だぞと力強くうなずいて励ますように手の力を強めてくる。ちっとも大丈夫ではない。 とにかく終わったらこの不器用なボーイにひどい目見せてやるぞと固く心に決めて、俺は胃の中のものをせいいっぱい搾り出した。 金田一勇太郎は、最初から、なんだかぼーっとしたらっきょだった。 女慣れしていないのか入店初日は嬢に囲まれただけでアガッてしまって自分の名前を金田一ゆうちゃろーと噛み、そのあと冗談で童貞なのかと聞かれたのに真っ赤な顔でハイって答えたおかげで、ついたあだ名は「ドーテイのゆうちゃろ」だ。 年上のお姉さんたちはだいたいユウちゃんとか呼んで、気まぐれにおっぱいを押し付けて遊んでいる。何をやってもだいたいすぐ真っ赤になるから、こういう店では格好のおもちゃなのだ。 挨拶の不器用さからもわかるとおり、おもちゃでドーテイのゆうちゃろはそれからも事あるごとにヘマをした。 お客さんに勧められたお酒をもう飲めない嬢のかわりに飲んで翌朝までぐっすり眠ってしまったり、客引きをして来いと店の前に立たせたら迷子のおばあちゃんを連れてとなり駅まで行ってしまったり、とにかく真面目でお人よしのバカなのだ。 まったく思い出すだけでも反吐が出る。反吐じゃなかった。ゲロが出る。 出すもの出し終えるといくらか落ち着いて、ようやっと俺は立ち上がった。金田一が支えようと手を伸ばしてくるがいらないと首振ってよろよろ洗面台に歩く。 口の周りにこびりついた残滓が気持ち悪くてしかたなかった。蛇口をひねってぴちゃぴちゃと口元を落とし、それから金田一を振り返る。 「何時」 「えっ?」 「……時間。いま、何時かって聞いてんの」 「あ、えっと、……十二時過ぎだけど、」 「(三十分も吐いてたのか、)」 けどまあそんならもういいや、閉店時間は過ぎちゃってるんだからと潔く腰を折って、遠慮なくバシャバシャ顔にやる。火照った頬に冷たい水が気持ちいい。ファンデーションもマスカラもチークもたっぷり塗っていたけど気にせずに洗い流した。 さっぱりとしたところで頬を軽くたたいて水を払い、ふう、と息をつく。 すっきりした気分で顔を上げると、鏡越しに背後の金田一と目が合った。素顔を見るなり驚いたようにびくっと持ち上がった肩に、言いたいことがわかってすこしむっとする。 「……なに」 「えっ」 「スッピンが、そんなにめずらしいわけ」 「あ、いや、え、えっと、」 「はっきり言えば。盛りすぎだって」 「えっ? ち、ちがう! その、……かわいかったから」 「へ?」 思いがけないことばに、つかのま本気でぽかんとくちが開いた。だって俺は元来薄い顔立ちをしているから、化粧で盛ってるときとのギャップに引いたとか、どうせそんなところだろうと思っていたのだ。 まったく予想外だった。言われた意味がしばらく飲み込めなくて、理解するまですこしかかって、それからカアッと頬に血が昇る。 「っな、なに、それ、普段はかわいくないってことかよ、」 「えっ? えっと、そういうわけじゃ、ないけどさ、」 でも俺、こっちのが好きだな。そういって、はにかんで笑って金田一は制服のポケットからはい、とハンカチをとりだした。水色地に飛行機が飛んでいる、かわいらしい四つ折のやつ。 (なんだか、小さい男の子みたいな柄だな) じっと見つめていたら言いたいことがわかったのか、 「母親が選んだやつだから!」 と照れくさそうに言い置いて、それじゃ、お大事にと金田一はトイレを出て行った。 ぽつんとひとり残され、とりあえずハンカチで水滴をぬぐうと、男の人の整髪料みたいな匂いがうっすらとする。 手元のそれをしばらく眺め、それからトイレを後にすると、廊下の角を曲がったところには先輩のボーイに叱られる金田一の姿があった。 「どこ行ってたんだよ」 「新人のくせにサボってるんじゃない」 「次からは気をつけろ」 先輩は俺に気づくと声のトーンをすこし下げたけれど、そんなふうなことを言っているのはすれちがう俺にも漏れきこえた。 ロッカールームのドアを開けながら、あとで金田一に缶コーヒーの一本でも奢ってやろうと思ったのは、べつに俺のせいであいつが怒られているからとかそういうわけじゃない。おひとよしのゆうちゃろが勝手に俺を心配してトイレにきたとわかったからでも、それを言い訳せずスミマセンと頭を下げているからでもない。 ただ俺が仕事終わりに飲みたかったから。そうして俺は熱いのは苦手だから、最初の半分わけてやろうと思った、それだけのことだ。 |